坂口安吾が描いたモノ!

山猫文学案内

幼い頃、親父の書棚に並んでいたボロボロの読み古された安吾全集の記憶。何がそんなにいいものかと思ったものだ。だが、そこには確かに安吾にしか書けない安吾らしさがある。それがいつの時代も人を魅了するのだろう。安吾作品は我々に何を訴えかけてくるのだろうか?

吾輩は作家論者ではないから安吾そのものの資質や意図は本来、問わない。が、たまにはそういったアプローチも悪くなかろう。作品論研究というスタンスであったとしても、一読者として人としての安吾に興味を持ってはいけないわけではない。復興こそを堕落と断じ、戦時中の極限の一瞬に輝きを見出す。安吾の一見すると倒錯したようにも見える思想はどこからくるのか?

安吾は『ラムネ氏のこと』の中でこう書いている。

愛に邪悪しかなかった時代に人間の文学がなかったのは当然だ。勧善懲悪という公式から人間が現れてくるはずがない。しかしそいういう時代にも、ともかく人間の立場から不当な公式に反抗を試みた文学はあったが、それは戯作者という名でよばれた。

これを読んでピンときた。安吾は正しさや進歩ではなく『人間』であることを至上命題としたのだ。「人間」であるということは筋道が立っていることではない。美しいことでもない。合理性などは論外だ。「人間」であるということは非合理的であり、不条理で、醜く、汗と屈辱に塗れたものでその汚辱と悪意の中だからこそ、まさしく人間以外ではあり得ない一瞬の鮮烈な魂の煌めきが内包されているモノなのだろう。『白痴』がそうであるように。

それを「戯作者」の魂を持って人間の在り方そのものを作品に写し取ろうとしたのが安吾ではなかったか? 正しい在り方は確かに目指すべきところなのかもしれない。しかしその正しさは本当に当人が心からそう思える内発的なものなのか。言わされているだけの空虚な正しさではないのか? 汚辱と憎しみのなかで初めて人は輝く。相剋と痛みもない無菌室のようなクリーンな世界で我々は何を成せばいいのだろう? 困難があるからこそ人は飛べるのだ。邪こそが悲しいほどに人を引き立てるのだ。正しさと論理的整合性の中にはもはや「人間」は存在しない。プログラミングに成り果てた機械があるだけだ。

人間が正しさのシュプレヒコールの中で窮屈な正義の奴隷になっていく現代社会で、人間の間違い、暗部こそが人間性そのものであり、それをこそ是とした安吾の作品は溟い輝きを今に投射し続けている。

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