蜻蛉日記「うつろいたる菊」超解釈

受験勉強・参考書

皆さん、いつも読んでいるその読解おかしくないですか!?

女学生が授業の質問として蜻蛉日記「うつろいたる菊・町の小路の女」の和歌を持ってきた。
そのなかの「げにやげに 冬の夜ならぬ まきの戸も おそくあくるは わびしかりけり」の解釈がどうもわからないらしい。
なにがそんなに難しいのだろうか? 和訳あるでしょうに。
先生が模範解答として配ってくれた口語訳がなんとも意味不明であるとのこと、
話を聞いてみると彼女は大変面白いことを指摘していることがわかったのである。
場面は蜉蝣日記の最も有名な「ひとり寝る夜の」シーン。ちょっと長いが以下本文。

さて九月ばかりになりて、出でにたるほどに、箱のあるを手まさぐりにあけて見れば、人のもとにやらむとしける文あり。あさましさに、見てけりとだに知られむと思ひて、書きつく。
うたがはしほかにわたせる文見ればここやとだえにならむとすらむ

など思ふほどに、うべなう、十月つごもりがたに、三夜しきりて見えぬ時あり。つれなうて、「しばし試みるほどに」など気色あり。
これより夕さりつかた、「うちのかるまじかりけり」とて出づるに、心得で、人をつけて見すれば、「町の小路なるそこそこになむとまり給ひぬる」とて来たり。さればよと、いみじう心憂しと思へども、言はむやうも知らであるほどに、二三日ばかりありてあかつきがたに門をたたく時あり。さなめりと思ふに、憂くてあけさせねば、例の家とおぼしきところにものしたり。つとめて、なほもあらじと思ひて、
歎きつつひとり寝る夜のあくる間はいかに久しきものとかは知る

と、例よりも引きつくろひて書きて、うつろひたる菊にさしたり。
返りごと、「明くるまでも試みむとしつれど、とみなる召使の来あひたりつればなむ。いとことわりなりつるは。
げにやげに冬の夜ならぬ真木の戸もおそくあくるはわびしかりけり

さても、いとあやしかりつるほどにことなしびたる。しばしは忍びたるさまに、「内裏に」など言ひつつぞあるべきを、いとどしう心づきなく思ふことぞ限りなきや。

著名な場面である。
道綱母が旦那の書いた文を漁っていると(この時点で半端ない地雷臭。だがそれがいい)、他の女あてのラブレターらしき手紙を発見する。悔しくてしょうがない彼女は「I’m watching you」ということだけは伝えたいと思い、その他の女宛のラブレターに恨みのこもった和歌を書き足すのである。
「あんた他の女のところに入り浸ってもうあたしのところに来ないつもりなのッ?」
正直言って怖い。現代的に考えるならば勝手に彼氏のLINEを見た上で、彼氏の女友達のMessageに書き込みを入れて置くようなものだ。怖すぎる。
そういえば、時折、「浮気チェック」と私のLINEにも思い出したように第三者の監査が入る。これも人道的・倫理的に許されることではないと思われるが、どうであろう? 識者の方がいたら民事でも刑事でもいいので訴え方をお教え願いたい。
さて、そんな嫉妬心を旦那に当てつけていると、案の定、女のもとに通わなくなる日が、3日ばかり続いた。問い詰めても、あなたの心を試しているのだと突っぱねられる。
猜疑心の塊となった女は、探偵を使って男の後をつけさせる。(なんだこれは? 現代の話か?)案の定、男は別の女の屋敷に通っているではないか。
悔しさで歯ぎしりしながら数日を過ごすと、浮気がバレているとも知らない男がのこのことやってきたようだ。当然、女は男を締め出して恥をかかせようとする。
(いい気味だわ)
ところがなんと男は自分の家を素通りして、そのまま浮気相手のもとに目的地を変更して進んでいるようではないか。
これはたまらない。翌早朝、女はいたたまれず男に和歌を送る。
「あんた、あたしがどんだけ寂しい夜を過ごしたかわかってるの?」
これが「嘆きつつ…」の名歌。うむ、絶唱である。しかも彼女は色褪せた菊を文に添えているのである。これが褪めててしまった二人の愛のメタファであることは論を俟たない。
それに対して、「いや実は急用ができちゃってさ、」というエクスキューズとともに送ったのが今回の質問の和歌、
「げにやげに 冬の夜ならぬ まきの戸も おそくあくるは わびしかりけり」
である。解答、口語訳を見ると、
「本当に、本当に、冬の夜ではない、まきの戸も遅く開くのはつらいものです」
とある、女学生は私に、
「センセ、この時期は10月のつごもりでしょう。古文的にマ冬じゃん。なんで冬の夜ではない、なの?」
たしかに意味不明だ。口語訳作った教師も意味わかって書いているのだろうか?
探してみるとウェブ上にも有名な塾の解説サイトにも古文解説動画にも同じような説明でろくな解釈がない。Weblio古語辞典の口語訳も似たりよったりだ。

ちなみにこれはヤフー知恵袋のベストアンサー

「まったく君の言うとおりだね。
冬の夜ってのは遅く「あける(明ける)」ので辛いものだから、
君の言うとおり、俺が来ない夜を一人寝で明かすのが長くて辛いっていうのはわかったよ、ごめん。
でもさー、冬の夜じゃなくても真木の戸(戸の美称)も、遅くあける(開ける)のはやっぱり辛かったんだよ?」

「あくる」を、「夜が明ける」と「戸を開ける」の二重の意味に使った掛詞としていて、
戸を開けず男の来訪を拒んだ女への恨み言を述べている。

方塞がりとか言い訳して実は別の女のところへ通っていた兼家が、
2~3日してから明け方に訪ねてきたが、
道綱の母は拗ねて戸を開けてやらなかった。
そしたら、兼家は、待ちくたびれて帰って、結局また浮気相手の女の家に行ったらしい。
その日の朝、道綱の母が、
「戸を開けるまで待ってるのが、長くて辛いってわかった?
それくらいで待ちくたびれて帰るなんて、
あんたが来ない幾夜もの間、嘆きながら一人寝をしていた日々が、
どんだけ長くて辛かったか、あたしの気持ちなんかわからないんでしょうね!」
という意味の歌を詠んで送った。
それに対し、兼家が、
「うーん、言われてみれば、それもそうだね????
でも、やっぱり戸を開けてもらえないのも辛いもんだよ???」
と返した和歌がこれ。

全然かみ合ってないね、この夫婦、相性悪すぎるね。
てゆか兼家が野暮すぎるねw
男女の相聞歌というのは、相手の詠んだ歌の中心となっている語句を自分の歌の中にも詠みこんで、より程度を激しくして返すのがセオリー。
男が「君に会えなくて袖が濡れるほど泣いているよー」と言って寄越せば、
女は「あなたに会えなくて泣きすぎちゃって、袖どころか頭っからずぶ濡れよー」と返す。
そういうものなの。
それなのに、兼家の返歌のこの気のきかなさw
そのまんまやん。
マジギレしている女に向かって、オヤジギャグで返す男。
そりゃ道綱の母がガックリ来るのもむべなるかな、だねw
(でも、そういうあっけらかんとしたとこが兼家の良さ。
こういう男でないと、藤原北家の基盤は築けんよね)

全く噛み合ってないオヤジギャクに過ぎないという結論だ。
本当にそうだろうか? そんなくだらないやり取りを道綱母は書き残し、それが名文・名シーンとして遺り、後世、名だたる国学者たちが鑑賞してきたのだろうか?
そうは思われない。何よりそれではなぜ冬なのに「冬ではない戸」なのかの説明になっていないではないか!!
これはどう考えても「冬でもない戸外」ですら待たされるのは辛いのであるから、私が浮気をするのは極寒の「冬の戸外」で待たせるあなたが悪いのです。という辛辣なメッセージとして読み解くのが妥当であろう。
口では「急用ができた」とあからさまに嘘の言い訳をしながら、
和歌で「冬の戸外で待たせるような、そんなつめてー女は浮気されてもしかたねーじゃん」と本心を語ってみせたのである。むっちゃ噛み合ってんじゃん。『より程度を激しくして返して』るし。
「夜が明けるまで」の長い時間と、「戸があくまで」、がダブルミーニングになっているのは言うまでもない。「俺を待つ時間が辛い辛いって言うけど、お前だって俺をずっとまたせてんじゃん」と言いたいわけだ。その上で、男(兼家)は浮気の原因は俺を冬の寒い戸外で待たせた女方にある、と言ってのけたのである。ひゅー。
つまり、これは男女が互いに不仲の責任をなすりつけあっているのである。「お前が悪い」と。痴話喧嘩だ。
そのあと、堂々と他の女の元へ通っていることからして兼家は間違いなく確信犯である。道綱母に当てつけているのだ。
この和歌が道綱母の逆鱗に触れたことは、日記に筆が乗りに乗って書かれていることからも間違いがない。彼女の憎悪は時をかけている。時をかける憎悪。おかげで我々はなんと千年も後に、二人の痴話喧嘩をこの上ない臨場感を持って読むことができるのである。
アリガタイコトデアル。
やはりウェブ上の情報など過度に信用はできぬと思った一方、女学生の鋭い感性に唸った一日であった。

結論!文筆家の彼女に言い返してはならぬ!
文字通り永遠に嫌味を残されるぞ!

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